「開業医は勤務医の年収の2倍近い」。そんな話を聞いて、独立を意識し始めた先生も多いのではないでしょうか。しかし厚生労働省の統計を見ると、その数字にはある重要な前提が隠れています。
病院勤務医の平均給与が約1,485万円であるのに対し、個人診療所の開業医の平均は約2,631万円という差は、実は「給与」と「経営者としての損益差額」という性質の異なる数字を比較したものなのです。
年収の数字を調べるほど、かえってどちらが得なのか分からなくなってきた。そんな感覚をお持ちの先生もいるかもしれません。
本記事では、以下のポイントを詳しく解説します。
- 厚生労働省データで見る年収比較の実態と数字のカラクリ
- 生涯年収を左右する退職金・年金という構造的な違い
- 労働時間規制や経営責任から見る働き方とQOLの比較
- 診療科・開業年齢別に見る生涯年収シミュレーション
- 開業医・勤務医それぞれに向いている医師の特徴
「金額」だけでなく「構造」で比較する視点を持つことが、後悔のないキャリア選択につながります。ぜひご自身の状況と照らし合わせながら読み進めてください。
目次
開業医と勤務医、年収は本当にどちらが高いのか
「開業医は勤務医より年収が高い」というのは、多くの医師が漠然と抱いているイメージでしょう。まずは厚生労働省の一次データで、その実態を正確に確認していきます。
厚生労働省データで見る平均年収の実態
中央社会保険医療協議会が実施した「第25回医療経済実態調査(医療機関等調査)」によると、病院勤務医(全体)の平均給与は年額約1,485万円でした。一方、個人診療所の開業医については、給与ではなく「損益差額」という形で年間の収益が示されており、個人診療所全体の平均は約2,631万円となっています。
診療所の類型別に見ると、無床診療所では約2,584万円、入院設備を持つ有床診療所では約5,420万円と、開業形態によっても水準は大きく異なります。
| 区分 | 年間の水準 | 備考 |
|---|---|---|
| 病院勤務医(全体・医師) | 約1,485万円 | 給与(賞与含む) |
| 個人診療所(全体) | 約2,631万円 | 損益差額(給与ではない) |
| うち無床診療所 | 約2,584万円 | 同上 |
| うち有床診療所 | 約5,420万円 | 同上 |
出典:厚生労働省「第25回医療経済実態調査(医療機関等調査)報告の概要」
単純に差額を計算すると、年間で約1,146万円、月換算では約95万円もの開きになるのです。
当直明けの外来を終えて振り込まれる給与明細と、閉院後に経理ソフトを開いて確認する損益計算書とでは、同じ「年収」という言葉が指す中身がまったく違います。この違いこそが、比較の出発点として押さえておきたいポイントです。
「開業医は年収2倍」という数字のカラクリ
「それなら開業した方が得ではないか」と感じた先生も多いはずです。しかし厚生労働省自身が、この2つの数字を単純比較すべきではないと明言しています。
病院勤務医の数値が「給与」であるのに対し、開業医(個人)の数値は「給与ではなく収支差額」であるという点が、比較における最大の注意点です。
開業医の収支差額には、院長報酬相当額のほかに、次のような費用が含まれています。
- 診療所を建築するために借り入れた借金(元本)の返済
- 診療所の老朽化に備えた建て替え・修繕のための準備金
- 病気やけがで休業した場合の所得補償のための費用
- サラリーマンのような退職金がない分の、老後資金の積立に相当する部分
出典:厚生労働省「『勤務医の給料』と『開業医の収支差額』について」
つまり、開業医の「約2,631万円」はそのまま懐に入る金額ではなく、そこから将来への備えを自分で積み立てていく必要がある数字なのです。
加えて、同じ資料によると全国の病院勤務医の平均年齢は43.4歳、開業医の平均年齢は59.4歳と、比較している2つの集団の年齢層自体が大きく異なります。40代前半の勤務医と、60歳手前の経営者を単純に並べて「2倍」と語ること自体に、そもそも無理があるといえるでしょう。
それでも「借入返済や積立を差し引いても、開業医の方が最終的な手取りは多いのではないか」と感じる先生もいるはずです。実際、経営が軌道に乗った後の診療所であれば、その見立ては誤りではありません。
ただし収支差額は開業初期ほど借入返済の負担が重く、経営年数が浅い段階では見た目の差ほど余裕がないケースが多い点は、事前に理解しておく必要があります。
診療科によって年収差は2〜3倍に広がる
年収の差は、開業医か勤務医かという軸だけでなく、診療科によっても大きく変わります。同調査では、入院設備を持たない一般診療所(個人)を診療科別に見ると、患者単価や設備投資の必要度が高い診療科と、保険診療が中心で単価が抑えられている診療科との間で、収益水準に2〜3倍の開きが生じることが示されています。
一般的な傾向として、皮膚科や外科系は収益性が高く、精神科や内科は比較的低めの水準にとどまりやすいとされています。
出典:厚生労働省「第25回医療経済実態調査の報告(令和7年実施)」
診療科ごとの正確な数値は、報告書本体の診療科別集計ページで個別に確認できます。「開業医の年収」を語る際は、開業医全体の平均値だけでなく、自分が検討している診療科の水準を確認することが欠かせません。
背景にあるのは、診療単価・再診率・設備投資の負担といった収益構造の違いです。高額な医療機器を必要とする診療科ほど、開業時の投資負担が重くなる一方で、保険診療中心で単価が抑えられている診療科は、患者数の確保そのものが収益維持の鍵となります。
この診療科ごとの収益構造の違いは、次章で扱う生涯年収シミュレーションの前提条件にも直結する重要な要素です。
生涯年収を左右する3つの構造差
年収の単純比較だけでは、長い医師人生を通じた収支の差は見えてきません。ここでは、生涯年収を左右する3つの構造的な要因を順番に見ていきます。
収入がピークを迎える年齢の違い|43.4歳と59.4歳
前章で触れた通り、病院勤務医の平均年齢は43.4歳、開業医の平均年齢は59.4歳です。この差は、単なる統計上の偏りではなく、収入のカーブそのものが勤務医と開業医で異なる形を描くことを示しています。
勤務医の年収は、年功序列的な給与体系のもとで40代にかけて緩やかに上昇し、部長職や医長職に就く50代前後でピークを迎える医師が多い傾向です。その後は非常勤や嘱託への切り替えにより、年収は緩やかに下がっていきます。
一方、開業医の収入カーブは、経営の巧拙によって大きく変動します。開業直後は借入返済の負担が重く、手元に残る金額は限られますが、患者基盤が固まる開業10年目以降は収益が安定し、50代から60代にかけて収入のピークを迎えるケースが少なくありません。
「いつ収入が最大化するか」という時間軸そのものが、勤務医と開業医では10年以上ずれるという点は、生涯年収を考えるうえで見落とされがちな視点です。
この時間軸のずれは、生涯年収の総額計算にも直結します。仮に同じ生涯年収であっても、収入のピークが40代にある場合と60代にある場合とでは、資産形成に使える運用期間や、住宅ローン・教育費といった支出のかさむ時期との重なり方がまったく異なるのです。
開業を検討する際は、「何歳で年収がいくらか」という単年の数字だけでなく、収入カーブ全体の形を意識しておくことが欠かせません。
「退職金がない」という開業医だけの前提
勤務医と開業医の生涯収支を分ける、もう一つの大きな要素が退職金の有無です。多くの病院・医療法人には退職金規定が設けられており、勤続年数に応じて退職時にまとまった資金を受け取れる勤務医は少なくありません。
一方、個人開業医にはサラリーマンのような退職金制度がなく、老後資金は自分自身で積み立てる必要があります。
この空白を埋める公的な選択肢として用意されているのが、中小企業基盤整備機構が運営する小規模企業共済です。
個人事業主である開業医(常時使用する従業員が5人以下の場合)も加入対象となっており、掛金は月額1,000円から70,000円の範囲で自由に設定でき、廃業・退職時に共済金として受け取れます。
| 比較項目 | 勤務医 | 開業医 |
|---|---|---|
| 退職金の原資 | 病院・医療法人の退職金規定 | 制度なし(自助努力が前提) |
| 代表的な備え方 | 勤務先の退職金制度 | 小規模企業共済・iDeCo等 |
| 掛金の柔軟性 | 勤務先の制度に準じる | 月額1,000円〜70,000円で自由に設定可 |
「経営が順調だから退職金は不要」と考える先生もいるかもしれませんが、小規模企業共済は掛金の全額が所得控除の対象となるため、単なる貯蓄ではなく節税効果を伴う制度です。開業当初から少額でも積み立てを始めておくことが、老後資金の設計において重要な一歩になります。
なお、小規模企業共済に加入できるのは個人開業医に限られ、医療法人を設立した後は新規加入ができません。事業承継や法人化を将来的に検討している場合は、加入・解約のタイミングによって受取額が掛金総額を下回る「元本割れ」が生じる可能性もあるため、法人化の計画と合わせて早めに検討しておく必要があります。
個人事業として開業してから法人化するまでの期間が短いほど、小規模企業共済のメリットを十分に活かせないまま終わってしまうケースもあるため、注意が必要です。
厚生年金と国民年金、老後の受給格差
年金制度の違いも、生涯を通じた収支に大きく影響します。勤務医は厚生年金に加入し、保険料は勤務先の医療機関と折半で負担します。給与に比例して年金額が積み上がる報酬比例部分があるため、現役時代の年収が高いほど将来受け取れる年金額も増えていく仕組みです。
一方、個人開業医は厚生年金に加入できず、公的年金は国民年金のみとなります。国民年金保険料は月額17,920円(令和8年度)で、加入期間や収入にかかわらず保険料は定額です。
つまり、開業医は現役時代の年収がどれだけ高くても、老齢基礎年金として受け取れる金額は勤務医と同水準にとどまり、厚生年金に相当する上乗せ部分がありません。
この格差を埋めるために、次のような私的年金を組み合わせて老後資金を設計する開業医が多いのが実情です。
- 国民年金基金(厚生年金との格差を埋める目的の制度。国民年金のみに加入する第1号被保険者が任意で加入でき、掛金上限は月額68,000円。将来の年金額があらかじめ決まる確定給付型)
- 日本医師会の医師年金(国民年金基金と別枠で組み合わせられる終身給付型)
- iDeCo(個人型確定拠出年金)
「収入が多いのだから年金も自然と増えるはずだ」という思い込みは、開業医においては当てはまりません。厚生年金という上乗せの仕組みを持たない以上、老後資金の設計は、退職金の備えと同様に、開業した時点から意識的に始めておく必要があるのです。
収入だけでは測れない、働き方とQOLの違い
年収や退職金・年金といった数字の比較だけでは、日々の働き方やQOL(生活の質)の違いは見えてきません。ここでは、労働時間の規制や経営責任という観点から、勤務医と開業医の働き方を比較します。
勤務医の労働時間規制と当直・オンコールの実態
2024年4月から、診療に従事する勤務医には時間外・休日労働の上限規制が適用されています。原則となるA水準では、時間外・休日労働の上限は年960時間です。
地域医療の確保などのためにやむを得ず長時間労働が必要な医療機関では、都道府県の指定を受けることで、B・連携B・C水準として年1,860時間まで上限を引き上げることができます。
出典:厚生労働省「建設業・ドライバー・医師等の時間外労働の上限規制」
この規制のポイントは、勤務医の労働時間には法律上の上限が存在するという点です。当直やオンコールの負担が大きい診療科では、依然として長時間労働が課題として残るものの、上限を超える労働は医療機関側の責任として是正が求められる仕組みになっています。
裏を返せば、勤務医は労働時間の管理を自分自身だけでなく、勤務先の労務管理体制にも委ねられる立場にあるといえます。
なお、複数の医療機関を掛け持ちする勤務医の場合、時間外・休日労働の上限は、すべての勤務先での労働時間を通算して適用されます。
非常勤やスポット勤務を組み合わせて収入を補っている勤務医にとって、この通算規定は「働けば働くほど自由になる」わけではないことを意味しており、労働時間という軸においては、勤務医の裁量には一定の限界があることを示しています。
開業医の「自由」の代償としての経営責任
開業医には、勤務医のような時間外労働の上限規制は適用されません。診療時間や休診日を自分の裁量で決められる自由度の高さは、開業医という働き方の大きな魅力の一つです。
しかし、この自由には代償が伴います。前章までで見てきた通り、開業医の収支差額には借入返済や設備更新費、老後資金の積立が含まれており、診療で得た収益がそのまま自由になるわけではありません。
患者数が計画を下回れば収入が減る一方で、借入の返済額は固定費として発生し続けます。当直がない代わりに、経営判断とその結果に対する責任を一人で背負う立場になる点は、勤務医との大きな違いです。
「自分の裁量で働ける開業医の方がQOLは高いはずだ」と考える先生もいるでしょう。実際、診療方針や休診日を自分で決められる自由度は、開業医ならではの利点です。
ただし、その自由は無条件に与えられるものではなく、経営が安定して初めて実感できるものである点には注意が必要です。開業直後は、資金繰りへの不安から診療時間外にも経営判断に追われ、労働時間規制のある勤務医時代よりも拘束感を強く感じる医師も少なくありません。
診療とは別に発生する経営業務も、開業医特有の負担です。スタッフの採用・教育・評価、金融機関との折衝、税務申告、医療機器の更新計画など、診療報酬とは直接結びつかない業務にも一定の時間を割く必要があります。
こうした業務を税理士や事務スタッフに委託することはできますが、最終的な経営判断の責任は開業医個人に帰属する点は変わりません。
| 比較項目 | 勤務医 | 開業医 |
|---|---|---|
| 労働時間の上限 | 法律上の規制あり(原則年960時間) | 規制なし(自己裁量) |
| 診療時間・休診日の決定権 | 勤務先の方針に従う | 自分で決定できる |
| 当直・オンコールの負担 | 勤務先の体制に依存 | 基本的になし(単独開業の場合) |
| 経営上の責任 | 負わない | 借入返済・人件費等を含めて負う |
どちらが幸せかは、何で決まるのか
ここまで見てきたように、勤務医と開業医では、労働時間の管理主体も、自由度と責任の配分もまったく異なります。「どちらが幸せか」という問いに、一律の正解はありません。
当直や時間外労働からできるだけ離れたいと考える医師にとっては、労働時間の上限規制がある勤務医としての働き方、あるいは経営が安定した後の開業医としての働き方が合っているといえます。反対に、診療方針や経営判断を自分自身で決めたいという医師にとっては、経営責任を負ってでも開業を選ぶことに大きな意味があるでしょう。
収入面では開業医が勤務医を上回る傾向にある一方で、QOLの面では必ずしも開業医が優位とは限りません。
労働時間の上限が及ばない分だけ自己管理に委ねられる範囲が広がり、収入と自由と責任のバランスをどう取るかは、最終的に本人の価値観に委ねられる部分が大きいのです。
重要なのは、収入面の比較と同様に、働き方の比較においても「自由」と「責任」、「規制」と「安定」という表裏の関係を理解したうえで、自分がどちらの側に重きを置くのかを見極めることです。次章では、こうした構造差を踏まえたうえで、実際の生涯年収シミュレーションを見ていきます。
生涯年収シミュレーション|勤務医のまま働くか、開業するか
ここまでの構造差を踏まえ、実際に生涯年収を試算してみましょう。あくまで一定の前提を置いた試算であり、個々の医師の実績を保証するものではない点をあらかじめご了承ください。
シミュレーションの前提条件
試算にあたり、以下の前提条件を置きます。
- 初期臨床研修(2年)・専門研修(3年)を経て、29歳から本格的な稼働を開始する
- 勤務医パターンは、29歳から65歳までの36年間、病院勤務医として働き続ける
- 開業医パターンは、29歳から39歳までの11年間を勤務医として過ごし、40歳で開業。その後70歳まで30年間、開業医として診療を続ける
- 勤務医の年収は、前章までの厚生労働省データに基づき、全体平均の約1,485万円で一定と仮定する(実際は年功序列で緩やかに上昇するため、簡略化した数値)
- 開業医の年収(損益差額)は、開業直後の5年間を借入返済の負担が重い期間とみなし、全体平均の6割水準、経営が安定する6年目以降は全体平均の約2,631万円で一定と仮定する
- 小規模企業共済・国民年金基金等の私的年金・退職金は、本試算には含めない(前章で扱った制度差は、この数字の上に別途上乗せ・控除される要素として捉える)
これらの前提は、実際の医師一人ひとりのキャリアを正確に再現するものではなく、あくまで構造の違いを比較しやすくするための単純化されたモデルです。
診療科によって年収水準が2〜3倍異なることは前章で確認した通りであり、開業する診療科や地域、経営の巧拙によって、実際の数字はここから大きく上下する点にご留意ください。
開業医の生涯年収試算
上記の前提で開業医パターンを計算すると、次のようになります。
| 期間 | 年数 | 想定年収 | 小計 |
|---|---|---|---|
| 勤務医期間(29〜39歳) | 11年 | 約1,485万円/年 | 約1億6,335万円 |
| 開業初期(40〜44歳) | 5年 | 約1,578.6万円/年 | 約7,893万円 |
| 開業安定期(45〜69歳) | 25年 | 約2,631万円/年 | 約6億5,775万円 |
| 生涯年収合計 | 41年 | – | 約9億3万円 |
開業医パターンの生涯年収は、この前提のもとで約9.0億円という試算になります。
ただし、この数字はあくまで診療所の損益差額であり、借入元本の返済や設備更新費、退職金・年金の積立に相当する部分がすでに差し引かれる前の水準である点は、前章までの内容と合わせて理解しておく必要があります。
この試算には、いくつかの前提を変えるだけで結果が大きく変動するという不確実性も伴います。たとえば開業を40歳ではなく50歳まで遅らせた場合、開業医としての稼働期間は30年から20年に短縮され、生涯年収合計は単純計算で約2億6,000万円程度縮小します。
反対に、前章で触れた収益性の高い診療科(皮膚科や外科系など)で開業する場合には、安定期の年収がここでの想定を上回り、試算額はさらに増加する可能性があります。加えて、診療所の休廃業・廃業リスクも無視できません。
経営がうまくいかず開業期間が想定より短くなれば、この試算はそのまま成立しなくなります。
勤務医の生涯年収試算
同じ前提で勤務医パターンを計算すると、次のようになります。
| 期間 | 年数 | 想定年収 | 小計 |
|---|---|---|---|
| 勤務医期間(29〜64歳) | 36年 | 約1,485万円/年 | 約5億3,460万円 |
単純比較では、開業医パターンが勤務医パターンを約3億6,500万円上回る結果となりました。ただし、この差をそのまま「開業医の方が3億円以上得」と受け取るのは早計です。勤務医には多くの病院・医療法人で退職金制度があり、開業医にはない一方、開業医は借入返済や設備更新費、老後資金の私的年金への積立を自分で賄う必要があります。
また、医師には一般的な定年制度がなく、体力や意欲に応じて70歳以降も現役を続ける勤務医・開業医がともに存在するため、稼働年数を36年・41年で区切ること自体も一つの仮定に過ぎません。
勤務医パターンについても、同様の感度が働きます。仮に65歳で完全に引退せず、非常勤や嘱託として70歳まで稼働を続ければ、生涯年収はさらに積み上がります。逆に、大学病院を中心に年収水準がやや低めの職場でキャリアを重ねた場合は、ここでの想定より生涯年収は縮小するでしょう。
この試算が示しているのは「開業医が絶対的に得」という結論ではなく、収入・退職金・年金という3つの要素を合わせて初めて、生涯収支の全体像が見えてくるということです。
自分自身の診療科の年収水準や、開業時期・借入額の見込みを当てはめてシミュレーションし直すことで、より実態に近い生涯収支のイメージをつかむことができます。
数字の大小だけで判断するのではなく、次章で扱う「どちらが自分に向いているか」という視点も併せて検討することが、後悔のない選択につながります。
開業医と勤務医、それぞれに向いているのはどんな医師か
ここまで見てきた年収・退職金・年金・働き方の構造差を踏まえ、最後に「自分はどちらに向いているか」を判断するための視点を整理します。
開業医に向いている人の特徴
開業医という働き方が合っているのは、次のような志向を持つ医師です。
- 診療方針や経営判断を自分自身で決めたいという意欲が強い
- 借入返済や収益変動といった経営リスクを、長期的なリターンとして受け入れられる
- 地域に根ざしたかかりつけ医として、患者やその家族と長期的な関係を築きたい
- 労働時間の上限規制よりも、診療時間・休診日を自分の裁量で調整したい
- 開業後10年、20年という単位で経営を安定させ、収入のピークを50代以降に据える時間軸に抵抗がない
「経営者としての責任」を前向きに引き受けられるかどうかが、開業医としての適性を測る一つの分かれ目になります。前章で見た通り、開業医の生涯年収が勤務医を上回るのは、経営が安定してからの期間が長く続く場合であり、経営リスクへの耐性がなければ、その優位性を十分に享受できません。
加えて、開業を検討する際は、自分が携わりたい診療科の収益構造も無視できない要素です。設備投資の負担が重い診療科と、患者数の確保が収益に直結する診療科とでは、開業後の資金繰りの安定するスピードが異なります。
自分の専門とする診療科が、前章で見たどちらの収益構造に近いのかをあらかじめ把握しておくことも、開業の適性を判断する材料になります。
勤務医を続ける方が合理的なケース
一方で、次のような状況にある医師にとっては、勤務医を続けることの方が合理的な選択となりやすいといえます。
- 時間外労働の上限規制など、法律上の枠組みによって労働時間が守られる安心感を重視したい
- 借入や経営リスクを負わず、給与という安定した収入源を維持したい
- 専門性を追求し、症例数や設備の充実した病院で臨床・研究を続けたい
- 退職金制度が整った病院・医療法人に所属しており、老後資金の設計を勤務先に委ねられる
- ライフイベント(結婚・出産・育児等)に応じて、非常勤やカリキュラム制の研修など柔軟な働き方を選びたい
特に、開業資金の借入や経営責任に対する心理的なハードルが高い医師にとっては、生涯年収の単純な最大化よりも、収入の安定性や労働時間の規制という安心材料を優先する方が、結果としてQOLの高い医師人生につながりやすいでしょう。
また、勤務医のまま専門性を極める道は、開業とは異なる形で収入を伸ばす余地も残されています。サブスペシャルティ資格の取得や管理職への昇進、非常勤やスポット勤務を組み合わせた副収入の確保など、経営リスクを負わずに生涯年収を積み上げる方法は複数存在します。
「開業しなければ収入は頭打ちになる」という思い込みだけで判断せず、勤務医として働き続けた場合の伸びしろも併せて検討する価値があります。
判断に迷ったときのチェックリスト
開業か勤務医継続かで迷う場合は、以下の項目を自分自身に問いかけてみてください。
| 確認項目 | 開業医向きの回答 | 勤務医向きの回答 |
|---|---|---|
| 経営リスクへの耐性 | 長期的なリターンとして受け入れられる | できるだけ負いたくない |
| 労働時間の裁量 | 自分で調整したい | 規制による安心感を重視したい |
| 老後資金の設計 | 自分で私的年金・共済を組み立てられる | 勤務先の退職金制度に委ねたい |
| 収入のピーク時期 | 50代以降でも構わない | 40代でのピークを望む |
| 借入への抵抗感 | 数千万円規模でも許容できる | できるだけ避けたい |
いずれの項目も、どちらが「正解」というものではありません。自分がどちらの回答に多く当てはまるかを整理することが、後悔のない選択につながります。
年収の数字だけを見て開業を決断するのではなく、退職金・年金・労働時間といった構造的な違いまで踏まえたうえで、自分自身のキャリアを設計していくことが大切です。
まとめ:生涯年収は「金額」ではなく「構造」で比較する
厚生労働省のデータでは、開業医の平均年収は勤務医の約1.8倍という結果が示されています。
しかし、この数字は「給与」と「経営者としての損益差額」という性質の異なるものを比較したものであり、そこから借入返済や退職金・年金の積立といった要素を差し引いて初めて、実際の生涯収支が見えてきます。
収入のピーク年齢、退職金の有無、厚生年金と国民年金の受給格差という3つの構造差は、単年の年収比較だけでは見落とされがちなポイントです。労働時間の規制と経営責任という働き方の違いも合わせて考えると、「どちらが得か」ではなく「自分はどちらの構造に向いているか」という問いこそが、後悔のないキャリア選択の出発点になります。
ご自身の診療科や開業時期を当てはめて、一度シミュレーションし直してみてください。数字は判断を助けますが、最後に決めるのは数字ではなく先生自身です。